Arsene wenger

Arsene Wenger

ヴェンゲルは1994年10月、UAEで開催された

FIFAのカンファレンスに出席した。

UAEに滞在中、グランパスのオーナーであるトヨタからオファーを受けた。

呈示された条件は魅力的だった。ヴェンゲルはフランスを離れるチャンスが来た。

 

「フランスではノンストップで10シーズン過ごしてきた。

この年で異文化に触れなければ、一生そのチャンスはない

ことを知っていたんだ。」

 

ヴェンゲルは興味を引かれたが、他のものからのアドバイスにも

耳を傾けた。カンファレンスの間、イングランドのジャーナリスト

で日本のサッカーの第一人者であるジェレミーウォーカーと面会した。

 

監督とジャーナリストの立場を交換して、ヴェンゲルは矢継ぎ早に極東の

サカーと文化的習慣について質問攻めにした。ジェレミーはほとんど日本の

社会学のテストのように答えた。ベンゲルは驚き、後年、プレスカンファレンスで

ジェレミーをファーストネームで呼ぶような間柄になった。数あるメディアの

中から、ほとんどプレスに対しては小言しか言わない彼にとっては極めて稀な

ことである。

 

ジェレミーや友人コンテの言葉に興味を引かれたヴェンゲルは、その年の

11月、名古屋ー広島戦を瑞穂競技場で視察した。

 

「名古屋と契約するまで私は日本に行ったことがなかった。クラブを訪れ

役員と面会した。チームは低迷しており自分にこう言い聞かせた

『ゼロからスタートするんだ』」

事実グランパスはニコスシリーズで最下位だった。

 

日本人の交渉は彼等独特のやりかたで、はっきりしない決断に終始いらいらさせられた。

OK私が必要なのか要らないのか?必要ならば、これが私の要求だ、これ以上話し合う余地はない。」

ヴェンゲルは日本側に48時間の猶予を与え、それをデッドラインにした。

 

日本側が折れて、2年契約の7500万の年俸の契約を結んだ。

 

 

 

ある日の夜、いつものようにホテルでTVの前に腰掛け、ブラジル国内の試合を

見ながら、選手のパフォーマンスを分析していた。

一人の選手が目に留まったが名前を聞き取れなかった。

ヴェンゲルはロビーに降りて通訳を呼び、彼の助けでわかった。

カルロス アレキサンドロ トーレスーーーカルロス・アルベルトの息子ーーであった。

このブラジル人こそが、ベンゲル時代のグランパスの最初の助っ人になるのであった

 

 

平山大、ヴェンゲルと同時期に入団し怪我する前に16試合出場し

フランス人監督の下で成長していていた選手。

彼はベンゲルの怒りを述懐する。

 

「前半負けていたとしますよね、そうするとドレッシングルームに

入るなり怒りが爆発しているんですよ。その声は更衣室を通り越して

外の廊下まで聞こえるくらいです。ただ彼は怒っている時でさえ、

本物の紳士であり続けました。」

 

ヴェンゲルはこの若い平山を印象深く語った。

 

「チームが勝ちはじめたのは彼のリーダーシップがあったことを観察していた。

彼は信じられないくらい思慮深く、偉大なゲーム分析家であり、とても際立っていた。

彼は個人的なアドバイスをチームメイト、さらには控えの選手まで与えていた。」

 

平山大は語る

 

「例えば、ヴェンゲルは決して選手を口汚く罵ることはなかったですね。

ただ、パスミス、スライディングタックルや集中力の欠如の現れとなる心理的な弱点の兆候は見逃さなかった。決まってそういうときには『臆病者』と言ったんです。」

 

 

ストイコビッチーーずっと控えだったーーは奇妙なことにグランパスの

役員からヴェンゲルとの契約に関して相談を持ちかけられていた。

フランスリーグで輝いた選手として、またかつてヴェンゲル率いるモナコと対戦した

経験に照らして、ヴェンゲルの監督としての能力を知りたがったようだ。

 

ストイコビッチはこう言い放った

「もしほんのわずかでもヴェンゲルと契約できる可能性があるならば、全力で

獲得するんだ。」

「かれらはなぜ私がこんなに熱くなっているのか訊ねたんだ。『彼をここに連れてきて

自分の目で確かめれば良いさ』と答えたよ。私の言ったことは正しかったんだ」

 

平山もその熱狂を共有したひとりであった。

「ヴェンゲルの練習はとても効果的でした、どんなセッションでも無駄な時間は一秒もありませんでした。全てが完璧に計算されていました。

これまで日本ではコーチが34時間も練習させるのが当たり前でしたが、ヴェンゲルは

人間の集中力は90分しか持たないからと説明しました。

なので我々のセッションはそれ以上のびることはありませんでした。

そしてヴェンゲルは練習の意図を説明することも怠りませんでした。このため何をやっているか何のためにやっているか選手は良く理解できました。

ヴェンゲルは最初にチームとして機能しよう、次に守備ブロックとして機能しよう、最後には個人として機能しようと鼓舞しました。」

 

 

 

「まるでフランスの1940年代から50年代にいたような気分さ。

プロフェッショナルフットボールにファンタジーが合った時代。」

ヴェンゲルは日本での初めてのシーズンをこう振り返る。

 

「選手達はプロとしてどうあるべきかを模索していたし、私のキャリアの

中でボールを選手達から隠すことをしたのは初めてだった。そうでないと

彼等はいつまでも止めないからね。これは驚きであり、いままでになかったことさ。」

 

平山

「指示はとてもシンプルでかつロジカル、そして効果的でした。

全て心理的なものでした。彼の指示では試合や練習に至るまで

複雑過ぎるものをやろうとはしませんでした。我々の全体的な

戦略は相手によって変わるものではなかったのです。彼は常に

『自分達の力を発揮できれば、勝てるんだ』ということを言ってました。

試合前の指示は彼の戦術の文脈の中でダイレクトで一貫していました。

 

ヴェンゲルは心理的に良い準備をすることに力を注いでいました。

彼はボールをキープしろ、勝つことに集中しろくらいしか言いませんでした。

もちろん通訳を通じてですが。しかし彼はとても興奮して情熱的な姿でした。

普段は温厚な紳士なだけあってその姿は際立っていました。」

 

「我々はチームとしてとてもフィットしていました。怪我人もすごく

少なかったですし。フィットネスのピークは通常の練習の前後に行う

2回の筋トレセッションによるものでした。ヴェンゲル自身は指導に立ち会い

ませんでしたが、正確に把握していました。

 

他の監督やクラブでは筋トレは極一般的なものですが、ヴェンゲルの場合

フットボーラーとして、特に試合のなかで必要な部位にフォーカスしていました。

これにより我々は強くなると同時に走ることもできました。

 

ヴェンゲルはあれを食べるな、酒は呑むなとかは言いませんでしたが、

我々のことを注意深く観察していました。

練習前には体重と体脂肪を毎日計測します。体脂肪が11~12パーセントを

超えると警告を受けます。限度を超えるともとに戻るまで全体から外されます。

このため我々はトレーナーに食事に関して積極的にアドバイスを求めることに

なりました。」

中断期間にヴェンゲルはベルサイユキャンプを張り、失った自信を

回復させようとした。

 

「ボールを持った時に私の顔を見るな。自分で判断しろ」タッチラインに

張り出しながらヴェンゲルは叫んだ。

 

 

ヴェンゲル学校の生徒達は学んだことを身につけ勝利に向かいはじめた。

そのシーズンの終わりには最下位から2位に順位が上昇して終えた。