魅力的な”football”を再び演じるために
football”に関する戦術の象徴は、無限へと続く直線ではなく、回帰する円環である
戦術という仕掛けを持つことの意味は、ただ単に、フットボールの約束事を言葉で縛る、というところにあるのではない。
むしろ、これを読みかつ問題にするたびに、一連の古典的な概念群が再演(represent)されるところに、仕掛けの妙味がある。そこで再演されるものは、基本的にリヌスミケルスRinus MichelsやアリゴサッキArrigo Sacchi に代表される(いまとなっては)古典時代(とされる)において形成されたものであり、それ以降に付け加えられたのは”ball rest”などのごくわずかな概念に限られる。ヨーロッパの戦術思想は、ちょうどミケルスの悲劇を上演するするように、あるいはサッキを再演するように、普遍的な理性の所産として了解された共通の概念群を、繰り返し模倣=再現(minesis)することによって成り立ってきたのである。
上述のような戦術は、そうした「古典劇」のためのテクストであり、古典的なFootball概念を繰り返し上演するための仕掛けとして、近代フットボール人が発明したものである。
もちろん、戦術といえども、神ならぬ人間の意思活動の成果であるから制定時の政治的な思惑がそこに混入させられていることも、少なくない。
例えば、借り物の古典の再演に飽き足らず、万邦無比の独自性を自らの過去に探し求め(探し倦ねた場合はそれをして)、オリジナリティを志向しようとする勢力がある場合が、それである。
文藝の世界での私小説派を想起すればわかるように、それはたかだか明治以降の新しい感覚ではあるが、この場合には民族的個性が、戦術の中に無理矢理挿入されることになる。
また、人々の間での共通理解が失われ、戦術の選択自体が先鋭なポリティカル・イッシューになると戦術は普遍的に妥当するするはずのものとして共有された、フットボール概念の体系的呈示というよりは同じ天をともに戴かない政治理念同士が、当座の宿で肘をぶつけあう、いわば呉越同舟の様相を呈することも多い。
(高木や!高木の頭やっ!!!)
けれども、本来、戦術に盛られているのは、ギリシャ人ならミーメーシス(minesis 模倣=再現)、フランス人ならルプレザンタシオン(représentation=再演)と呼ぶ精神的志向であり、それは、up to dateであることを必ずしもよしとしない発想、オリジナルであることを必ずしもよしとしない発想、あるいは、いたずらに個性を強調しない発想、である。
哲学者ジル・ドゥールーズ(Gilles Deleuze 1925年1月18日 – 1995年11月4日)による告発を待つまでも無く、この発想は、「西欧」精神そのものを根底から束縛する思考様式であり、それは「西欧」精神が結晶化したモダーンフットボールのなかに、とりわけ深く刻み込まれている。
ピッチの表層が頻繁に変わりつつある国でも、実は、古典的なフットボール概念を執拗に再演し続けていることを、見逃してはならない。
もちろん,特定の時代、国、地域に生まれた古典的フットボール概念が、あらゆる時空においてそのままで当てはまるわけではない。
これは古典劇の事例では無いが、かつてパトリス・シェローがワーグナーの「指輪」を演出して
世間をあっといわせたように、同じテクストを再演するにしても、その時代に相応しい舞台装置にあわせた再解釈が要請される。
そのようなものなしでも人は生きられるかもしれないし、少なくともそれなしに生きられると考えられる人は、後をたたない。
けれども、古典的フットボール概念の思想は、絶えず存亡の危機に陥っては、再演されてきた思想である。
この,あえて骨張った叙述は、ただ単に紙幅を節約するためでは無く、あまたのFootball-Nation(すでにNation-stateの枠組みを超えてしまった!)がそれ以前有していた価値を、根こそぎ、論理的に克服するためのプロジェクトであったことを、明らかにするものでもある。
もちろん、はじめからこのプロジェクトを明示的に拒否する国すら存在した。
また、それは、プロジェクトが徹底されれば、の話であって、これが自覚的に遂行された国は、実はほとんどない。
特に後発のFootball-Nationは、とりあえず「フットボール」の外形を整えることに腐心するから、そこに演出される古典概念も、意識的な追求の対象では無く、本音としての「私」的空間をひっそりと包み隠すフロックコートでしかないことが多い。
錦の御旗として「誰かの言葉」の背後に、有力な「私」的勢力や利害の跳梁跋扈を見出すことが容易なのは、そのためである。
だが、「代表」の論理は、一定の社会状況を念頭に置く時、劇薬的な効果を伴う強力な処方箋であったことは、まちがいない。
そして、footballを巡る議論が糸の切れた凧のようにならないために(実態はさておき)、特定の立場で特定な趣向しかもたなくなった<私>的人々の舞台装置である「代表」を、座標軸として的確に捉えることが必要なのか、どうか。そして、これが、さまざまな水準で、限界に直面している。
なお、ここで論ずる余裕は無いが、「代表」の限界は、その支柱である「強化委員」「育成」の限界にほかならず、以下の現象は、直接には、彼等の能力や威信への不信感ないし不全感ーーーーそれとは裏腹に、以下の新しいfootballの担い手としての「クラブ」「ユース」などへの(ときには過剰な)期待感ーーーーという形でも現れることに注意しておきたい。
こうした現象と並行して、そもそも古典的概念が衰退する時期もあった。
それを演出するのが、アダム・スミスらが発見した、「市場」というもう一つの舞台装置である。市場は個々のアクターが私益だけを追求し、競争していくと、全体としては最適な資源配分がなされるという、不思議なメカニズムを持っている。むしろ、市場外から余計な出だしをするから上手くいかないのであって、従来の規制を緩和し、市場メカニズム、その力を遺憾なく発揮させることこそが肝要である、とされる。
このイメージをフットボールに投影すると、個々のスターが拮抗しつつ、自らの利益だけを追求して競争する状態がフットボールの理想状態であるとする、価値観に到達する。かくして、古典的フットボール概念を再演する必要は衰滅する。
もっとも、こうした古典的フットボール概念の衰退に対する危機感があるために、逆に、再興の動きが、これまでに無く高まっているのも事実である。その際、国境というもうひとつの舞台装置を超えて、古典的フットボール概念の演出を追求しようとする幾人かの監督が、今日の状況に強いインスピレーションを与えている。
いずれにせよ、今日における”football”の再演とは、公衆が参与する、もっと知的でチャーミングな議論の場を、戦術論において維持することに他ならない。しかし、従来の戦術論がしばしば陥りがちだった陳腐なアマチュアリズムは、実は、そうしたフットボール圏の形成をスポイルしてきたのではなかったか。必ずしも一般向けに仕上がらなかった本稿が呼び掛けているのは、そうした議論に辟易している公衆、今日におけるフットボール圏の担い手たちである(・ω・)/ 。
<了>