アリゴサッキとイタリアスタイルのゾーンの台頭/Arrigo Sacchi and the rire of the zone,Italian-style

アリゴサッキとイタリアスタイルのゾーンの台頭/Arrigo Sacchi and the rire of the zone,Italian-style

“All my player have to learn how to play in defence and up front,
and they must attack space”

 ARRIGO SACCHI

Winning at All Costs: A Scandalous History of Italian Soccer

長年、必ずスイーパーを置いたマンツーマンマーキングがイタリアの
変わらない特徴であった。古典的なカテナチオを変えることはほとんどなかった。
どの監督も頑に5バックをやめようとはしなかった。

1970年代の中ごろから状況が変化しはじめた。Luis Vincioがナポリで1974-1975にかけてゾーンディフェンスを始めたが、” イタリアのゾーンへの道”は選手として1950年代に活躍したリードホルム(Swede Nils Liedholm)をおいてほかにはいない。
リードホルムはローマでスイーパーを置かない4バックを取り入れ、ディフェンスの前にプレイメーカーを置いた*。

* 他に知られた方法としてはゾーナルディフェンスとマンマーキングを組み合わせたミックスゾーンというもの。その後幾人かの監督が流行の3-4-3を取り入れる。3-4-3は1980年代ベルギー代表監督Guy Thysや1990年代のオランダとの関連が一般的に指摘される。3-4-3の使い手で成功したのは1990年代ウディネーゼ、ミラン、インテルで指揮をとったザッケローニである。
3-4-3はウィングバックとビアホフやヴィエリのような強力なCFに依存し、カウンターアタックのために背後の広大なスペースを残している。

その後、他の監督は、イタリアにとっての–異星人–とも言える攻撃哲学に出会うことになる。
チェコのゼーマンはたとえ0-0状態であっても常に選手に攻めるように鼓舞したのだ。
彼のチームはスペクタクルであったが、何も手に入れることはできなかった。
数多くの喝采を除いては。

ミランの会長、ベルルスコーニが1986年に二部のパルマから引き抜いた時、その男はまだ若かったが既に禿げていたが、彼が2度の降格経験があるクラブに、1979年以来訪れていない優勝をもたらすと予想したコメンテイターはほとんどいなかった。

サッキは選手としては秀でて無く(監督としては珍しい)、彼のプロフェッショナルなスタイルはヒステリックでマッチョなイタリアサッカーにおいて異質だった。
彼は、1970年代のトータルフットボールに類似する、ゾーンを基礎に置いたプレッシングゲームを提唱した。

彼の、たとえどんな選手でも彼のシステムにフィットできるし、しているという”モジュール”概念は熱狂的な支持者を生み出す一方で、ミランのようなチームであれだけの選手がいれば誰が出ても勝てるだろうという批判も聞かれた。

このドグマにも関わらず、サッキの成功は巨星のような選手たち
グーリット、ファンバステン、ライカールトのオランダトリオ、バレージ、マルディーニ、コスタクルタ、そしてタソッティなどの支えがあった。
これらの選手をベースにして、アンカーのアンチェロッティとともに中盤の汗かき仕事を行う選手を育てることができた。
サッキのシステムは機能すれば、攻撃的で、稲妻のように速く、そしてスペクタクルだった。あらゆる選手はプレッシングのタスクを負っていた。前線のファンバステンからGKのロッシまでも。

ミランでの成功の後、サッキは1992年にイタリア代表の指揮を執るようになるが、すぐに彼は数百万のイタリア国民の憎悪の対象になった。モジュール概念へのあくなき固執と個人よりも戦術優先の固定化により、世論はサッキ派とアンチサッキ派に別れた。

サッキ戦術は古いリベロの死をもたらした。そしてオールドスタイルなリベロは蘇生することはなかったのだ。
1990年のミランにはまだバレージがいた。彼はリベロではなく最後の偉大なるスイーパーでありディフェンスの後ろでプレーしたのだ
プレッシングゲームにはオフサイド、フラットバック4、2〜3人のセンターバックが必要になる。ボールのないところでの動きが、ボールのあるところでの動きと同じように重要なのだ。
そして真のスイーパーはキーパーの役割になった。足でボールをコントロール出来、決してけり出さないGKに。中盤は潰しあいになり、ますますスピードアップしている。
もし優れた選手がピッチにいれば、スリリングなことになるだろう。選手がスペースを圧迫すれば、ゲームはタックルとファウルの繰り返しで退屈なものになってしまう。

1990年代までには、ほとんどのチームがマンツーマンをやめプレッシングをとりいれた。しかしこの戦術の革新は、より攻撃的なフットボールを生み出さなかった。
ほとんどのチームは純然たるストライカーを置き、ゲームのスピードは選手のスキルと閃きを奪い去ることになった。フットボールは圧倒的にアスレチックスポーツとなり、そこではハードランニング、肉体的強さ、そして選手層の厚さが支配している。
わずかなスペースの中で狡猾さ、ねつ造、非難が仕掛けられている。

カテナチオの死はカルチョのスペクタクルの向上につながることはなかった。オールドファンはかつて子供時代に見たゲームを熱望した。
ゲームのスピード、疑いのないスキル、フィジカルパワーは向上したのにも関わらず、
1950年代、60年代、70年代に見たそれよりも退屈な試合が増えたのである。

サッキはミランでの成功を決して繰り返さなかった。アトレチコマドリーや再び戻ったミラン、そしてパルマでは災いをもたらし、ストレスから辞任している。2005年にはレアルマドリーのディレクターに就任した。

サッキの門弟、アンチェロッティは2002年にミランの監督に就任し、ポゼッションゲームでヨーロッパ、リーグを制覇する好チームを作り上げた。

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